ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に、その総責任者として活躍。関係者だけでなく一般のファンにも広く知られた山田宏さんに、かつてのタイヤ開発やレース業界にまつわる話を、毎回たっぷり語ってもらいます。今回は、後のMotoGPにおける活動の礎となった、ロードレース世界選手権にGP125で挑戦したときの話を中心に。
TEXT: Toru TAMIYA
上田昇選手の優勝、そしてWGPフル参戦を決定したTSR
1991年というのは、ブリヂストンにとって非常に重要な年となりましたが、シーズンオフの段階では“そんなこと”が起こるなんて、まるで想像すらしていませんでした。前年同様、この年の全日本ロードレース選手権もGP250用タイヤの開発をメインとしながら、GP125のライダーも何名かサポートしていました。そのうちのひとりが、テクニカルスポーツ(現在のTSR)から前年に続いて継続参戦となったノビーこと上田昇選手。そしてその上田選手は、ワイルドカード枠で出場したロードレース世界選手権(WGP)の開幕戦・日本GPでポールtoウィンを達成してしまったのです。
いくら慣れ親しんだ鈴鹿サーキットでのレースだったとはいえ、ブリヂストンとしてはGP125よりもGP250のタイヤ開発に力を注いでいた中での勝利だったので、ただただ驚くばかり。上田選手の類まれなる才能が成し得た優勝だったと思います。
しかし“そんなこと”とは、上田選手の日本GP優勝ばかりではありませんでした。この勝利をきっかけに、テクニカルスポーツと上田選手はWGPへのフル参戦を決定したのです。藤井正和監督が、当時のプロモーターから誘われたこともあって決めたのですが、当然ながらブリヂストンとしては何の準備もできていません。まあ、藤井監督にしてもそれは同じだったでしょうが、我々は会社組織の一部ですから年間予算の問題もあります。かといって「タイヤは供給できません」というわけにも……。私は当時、まだいわゆる平社員でしたが、本社のモータースポーツを担当していた課長は対応に悩んだと思います。
しかも、日本GPの2週間後には第2戦オーストラリアGPが迫っていました。どう考えてもそこにはサポート体制づくりが間に合いません。結局、この第2戦はチームにタイヤだけ渡して、メカニックに自分たちでタイヤをホイールに組んでもらいました。ブリヂストンの人間はだれも行かず、もちろんデータも皆無なのでスペシャルなタイヤなんてつくれませんから、たしか2種類のコンパウンドを渡して、「これでなんとかしてください!」という状態でした。
レース経験が買われて急きょ5月からWGPへ
いま振り返れば、本当によくあの段階からWGPでのサポート活動をするという決定ができたなあと思うのですが、いよいよヨーロッパラウンドに突入した第4戦以降(第3戦アメリカGPはGP125未開催)、ブリヂストンはなんとかサポート体制を築いて、WGPを転戦することになりました。
その一方でこの1991年は、全日本ロードレース選手権でもブリヂストンはさらに活動を強化。GP250で2年連続チャンピオンを獲得したTEAM HRCの岡田忠之選手をはじめ、前年もサポートしていた青木宣篤選手や田口益充選手、宇田川勉選手、難波恭司選手といったGP250ライダーのサポート継続に加えて、前年は後半数戦のスポット参戦だったTT-F1(スーパーバイククラス)の塚本昭一選手をフルサポートすることになっていました。
塚本選手は、カワサキワークスチームからの参戦。ブリヂストンがTT-F1のワークスマシンに装着されるのはこれが初めてだったので、専任の設計担当者を配属していましたが、現場では私も塚本選手のコメントを頻繁に聞いていました。
全日本もサポート拡大で、業務もかなりボリュームアップ。そんな中で5月からのWGPにどの技術者を帯同させるか、上司はとても悩んだようです。じつは当時の私は、まったく英語がしゃべれなかったので、ドイツ人の現地スタッフやサポートライダーとのコミュニケーションが取れない状態。ちょうど同じ部署に、レース経験はないけど海外経験のある設計者がいました。でも最終的には私が選ばれて、WGPに行くことになったのです。
第4戦は、熱狂的なレースファンが多いスペインのヘレスサーキット。私は設計という立場で、このときは体制づくりのために本社の課長も同行しました。私はそのときが初めてのヨーロッパ。当時は旧ソ連の上空を航空機が飛べなかったので、アメリカ北部のアラスカ州にあるアンカレッジ空港で燃料チャージをして、オランダのアムステルダムを経由し、スペインのマドリッドからヘレスというルートで、フライトに24時間くらいかかり、とても遠かった記憶があります。
到着したヘレスサーキットでは、10数万人の観客による熱狂ぶりに圧倒。最盛期の鈴鹿8耐を経験していたので、それだけの人数がサーキットにいる状態は初めてではなかったのですが、熱量というか騒ぎ方が尋常ではありませんでした。そしてそういう環境で、上田選手が再び優勝。藤井監督と抱き合って喜んだのと同時に、「これだけの盛り上がりがあるのだから、ヨーロッパでタイヤを販売するためにはWGPをやるべきだ」と強く思ったことを覚えています。その後にWGPでヨーロッパを訪ねたときにも、サーキットにバイクで来場した観客のタイヤ銘柄を調べたり、街のバイクショップなどで販売状況などを聞いたりすることがよくありました。いわゆるラテン系の国々ではとくに、レースで勝利したライダーが使っているブランドのヘルメットやタイヤが、直後の月曜日と火曜日によく売れるなんて話を聞いて、一般ライダーの間にもレースが文化として根づいていると感じました。そして、WGPで勝負するならチャンピオンを目指すしかないと誓ったのです。
商用バンにタイヤやチェンジャーその他を積み込み、欧州を巡る
ところで、急遽フル参戦が決まったということもあり、初年度のレーシングサービスはなんとか体裁を整えたというような状態でした。ブリヂストンは当時、ヨーロッパに拠点となるような組織はなく、各国に販売会社がありました。その中で、とくにバイク用タイヤを積極的に販売していて、アウトバーンを使用した市販製品の耐久テストも担当していてくれたブリヂストンドイツに、WGPのレーシングサービスに関する協力を要請。当時のマネージャーはバイクもレースも大好きだったので、快く引き受けてくれました。
とはいえ、タイヤメーカーとしてチームをサポートする体制としてはかなり小規模。日本のハイエースよりはちょっと大きい程度の商用バンに、私と1~2名の現地スタッフというのが通常のメンバー。125ccクラスのタイヤは細いし、初年度のサポートライダーは上田選手のほかに1~2名程度だったので、タイヤチェンジャーまで積載してもなんとかなりましたけど、ライバルメーカーと比べたら設備や体制は雲泥の差です。私は、会社にFAXで送るための報告書を、サイドオーニング(クルマの横に設置した引き出し式の日除け)の下に置いたプラスチック製のテーブルで書いていた覚えがあります。
ちなみに欧州ラウンド初の第4戦ヘレスサーキットには、ブリヂストンドイツのマネージャーに加えて、市販タイヤの耐久テストもやってくれていた学生アルバイトのトーマス・ショルツが来てくれました。彼はその後、ブリヂストンドイツに就職。それからもずっとレーシングサービスを担当して、MotoGP時代も一緒に仕事をしていました。年齢も私のふたつくらい下で近く、ずっと一緒にレース現場にいましたから、なんだか同志のような感覚です。
彼もドイツ人ですが、やはりドイツ人というのは勤勉で、なおかつ働き方に対する意識などでは参考になることも多く、仕事は非常にやりやすかったです。もちろん個々のキャラクターというほうが大きいのですが、ラテン系のチームとかに対応すると、やっぱりいい加減な人たちも多くて……。まあもっとも、ドゥカティあたりになると優秀な人物はたくさんいて、MotoGP時代には夜遅くまで作業をしているメカニックを頻繁に見てきました。ドゥカティと一緒に仕事をしてから、イタリア人に対するイメージはだいぶ変わりましたね。
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