日本と世界のチャンピオンによる夢のペア――走る前から期待は高まるばかり。実際、走り出せばキング・ケニーは他を圧倒。しかし――もしそのまま順調に勝っていたら、これほど語り継がれることはなかったかもしれない。
※ヤングマシン2016年8月号より復刻
どんなに人気や実力があっても、何が起こるかわからない
悲劇の始まりとも言える、1985年だった。この年、ヤマハはFZR750を投入し、初めてファクトリー体制で鈴鹿8耐に臨んだ。
ライダーは、全日本で3連覇を懸けながら世界GPにもスポット参戦していた平忠彦、そして3年連続で世界GPタイトルを獲得し、「キング」の称号で呼ばれていたケニー・ロバーツのふたりだった。
平は、すでにスターライダーとしてその名を轟かせていた。ルックスとスタイルの良さ、物静かさ、そして速さ。平の人気に、鈴鹿8耐参戦にあたってチームスポンサーとして資生堂が名乗りを上げた。のちに数年にわたって悲運を彩ることになる薄紫色のテック21カラーは、この’85年に登場したのだった。
ロバーツは’83年に現役を引退し、1年のブランクを経ての参戦だった。しかし、世界GP3連覇の男の実力は、まったく衰えていなかった。予選では「タイラのセッティングのままでいい」とコースインし、ただひとり2分20秒を切る19秒台でポールポジションを獲得するほどだった。
市販車FZ750をベースに開発されたFZR750は、並列4気筒5バルブエンジンを専用のアルミデルタボックスフレームに搭載し、デビューイヤーながらロバーツの走りに応える速さを見せていた。
しかし、決勝では魔の手が忍び寄る。スタートで始動に手間取り、最後尾に落ちてしまうのだ。そこから怒濤の追い上げを見せ、1時間経過時には3番手にまで挽回。約3時間で、テック21カラーのFZRがトップ独走態勢を築くというドラマチックな展開を繰り広げた。
だが、それで終わりではなかった。初出場、初優勝を目前にした午後6時58分、平が走らせていたFZRが、マフラーから白煙を吹いたのだ。どうにかピットに戻ろうとしたが、思いは叶わなかった。悲鳴が上がるメインスタンド前に、平がFZRを停めた。
その後、3度出走したもののトラブルに見舞われ続けた平忠彦が、ようやく鈴鹿8耐の表彰台の頂点に立ったのは、5年後、’90年のことだった。 (※記事末に写真ギャラリーあり)
キングに敵なし
順調にゴールへ
そして運命の18時58分……
THE WORDS――「まぐれで勝って 調子に乗って地獄に堕ちた」――北川成人氏
眼鏡の奥の瞳が、いつも鋭い光をたたえている。「小心者なんですよ、ホントは」と本人が言うような感情の振れは、まったく感じられない。
北川成人さんは、’76年からヤマハのレース活動に携わってきた「最古参」だ。’13年までは、モトGP・ヤマハファクトリーチームの総責任者を務めた。
論理的な思考。冷徹な判断。すべてが理詰めで、曖昧なごまかしや妥協を許さない。そうやってヤマハのロードレースを牽引してきた北川さんが、長きにわたるレース活動の中で唯一涙を流したのが、’87年の鈴鹿8耐──ヤマハが初優勝を遂げた時のことだった。
8耐には、’84年、ヤマハがファクトリー参戦を開始する前年から車体設計者として携わった。
’85年、FZR750がデビューし、平忠彦がトップを走りながら残り30分でリタイヤという劇的な幕切れを迎えた時も、北川さんは「FZRの速さは証明されたかな」と冷静だった。
’86年、ケニー・ロバーツ/マイク・ボールドウィン組、平忠彦/クリスチャン・サロン組ともにトラブルでリタイヤを喫する。
迎えた’87年。3年目の8耐参戦を前に、北川さんは悪夢に苦しんでいた。
「夜中、本当にうなされて起きちゃうんですよ。6月だったかな、ブレーキディスクがバラバラに砕け散る夢を見たんです。驚いたことに、その後のテストで、マイケル・ドーソンのリヤホイールが割れてクラッシュしたんだ。予知夢ってあるんだなと」
ジンクスなど意に介さない北川さんでさえ、予知夢を見る始末である。ヤマハはそれほど追い詰められていた。
時代はまだ2ストレプリカ全盛期だったが、徐々に4ストスーパースポーツへとシフトしつつあった。それまでの「2ストのヤマハ」というイメージを塗り替え、「4ストのヤマハ」という新時代を築くには、まず8耐に勝つことが絶対条件だったのである。
そして決勝、残り5分──。首位走行中のヨシムラが、周回遅れと接触し、転倒した。その横を駆け抜け、どのマシンよりも先にチェッカーを受けたのは、ケビン・マギー/マーチン・ウイマー組のヤマハYZF750だった。
優勝……だ。北川さんは、自分の瞳が濡れていることに気付いた。
「もしかして、オレ、泣いてる?」
順調とは言えない開発だったが、わずか3度目の参戦でもぎ取った頂点。ヤマハの究極の4ストマシンを意味するYZFとしては、デビューウィンだ。
「4ストのヤマハ」が、幕を開けようとしている。冷徹な北川さんの心が揺さぶられるのも、無理はなかった。
「長くレースに携わってるけど、後にも先にもあの1回きりなんですよ。不覚にも涙腺がゆるんだのは」
ただ、「平忠彦を勝たせたい」という思いは残った。ウイマーは、GPで負傷し8耐参戦が叶わなかった平の代役だったのだ。日本のレースファンの大きな期待を背負いながらも、平はなぜか悲運に見舞われ続けていた。
初期のヤマハの8耐は、浮き沈みが激しかった。’85、’ 86年は2連続リタイヤ。’87、’88年は2連覇。そして’89年は、全車リタイヤ──。
’89年頃には開発の一部に携わりながら もYZF750のプロジェクトリーダーになっていた北川さんは、「まぐれで勝って浮かれて、調子に乗って地獄に堕ちた」と振り返る。
「’87年、’88年の連勝で、マシンが無駄に肥大化していったんですよ。レーサーとして原点を忘れていた。ライダーの思いのままになるエンジン特性、そして高い運動性能をもたらす車体の軽さといった基本特性をしっかり作り込まずに、ダメな部分を他で補おうとしていたんです。6ポットキャリパー、エアジャッキ、フレーム内のオイルタンク……。策に溺れてたんだね」
ピットワーク、長時間の走行、燃費など、耐久レースにはさまざまな要素がある。それだけに、勝ち方もいろいろある──という考えに陥りがちなのだ。冷静な技術者である北川さんでさえ、8耐の魔性に翻弄された。しかし、結局のところ必要なのは、レーサーとして純粋に速いかどうか、だったのだ。
’90年、YZF750は原点回帰を果たした。スロットルを開けた時にライダーが望むだけのトルクが出ること。そして車体の軽さがもたらす、意のままになるハンドリング。レーサーとしての本質を徹底的に追求した。
そして、平忠彦が悲願の優勝を果たした時、北川さんの目に涙はなかった。
「もう別のプロジェクトに移ってて、8耐はスーパーバイザーという立場だったからね……。関わりが薄くなってから『平忠彦を勝たせる』という目的を遂げるなんて、因縁めいたものを感じましたけどね」
冷静な技術者である北川さんに、涙を流させ、因縁を感じさせる。鈴鹿8耐には、確かに何かがある。
~1985年 鈴鹿8耐 ヤマハの戦い~
●文:高橋 剛/飛澤 慎/沼尾宏明/宮田健一 ●写真:鶴身 健/長谷川 徹/真弓悟史
↓↓[1984-1993]ヤマハ歴代8耐レーサーに続く↓↓
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