SurLuster Garage Talk with Motorcycle Lovers Vol.5 モーターサイクルジャーナリスト/ライディングインストラクター 山田 純さん
文:Nom 撮影:徳永 茂 ●BRAND POST提供:シュアラスター
気さくで飾らない人柄から、多くの人に「純さん」と呼ばれ親しまれているのがベテラン・バイクジャーナリストの山田純さん。
20歳の時に、単身アメリカに渡り、西海岸のローカルロードレースに出場するとその才能を発揮して連戦連勝で、すぐに全米を転戦するAMAレースへと戦いの場を移し、そこでも優秀な成績を収めるが1年で日本に帰国。日本でもMFJ/MCFAJのレースに出場し、年間チャンピオンに輝くなどの活躍を見せたが「こんな危ない仕事は嫌だ」と2シーズンでレースを止め、その後はバイク雑誌のテストライダー→バイク専門誌の編集長を経てフリーランスのバイクジャーナリストに。
以来、数々のバイク雑誌に執筆をする傍ら。1991年に日本人初のBMW Motorradのライディングインストラクターの資格を取得。それ以降は、BMWといえば純さんという定評を得ていまに至る。
今年の1月に73歳になった純さんは、当然、固形ワックス世代である。
最近はシュアラスターのゼロフィニッシュを愛用しているが、最高峰ワックスのマスターワークスには興味津々のよう。
「昔は固形ワックスしかなかったから、もちろん使っていたし、シュアラスターも使っていたよ。でも、バイクはエンブレムとかが付いていて、縁にワックスが白く残っちゃうので気を遣いながら使ってたね。それを気にしなくていい、ゼロフィニッシュが今のお気に入りだよ」
固形ワックスを使うのは久しぶりという純さんは、マスターワークスをどう感じるだろうか。経験豊富なベテランジャーナリストの厳しい目に果たして叶うのだろうか……。
箱根の坂でバイクに抜かれ、「バイク乗りたい」と思った
1950年に大阪の日本橋に生まれた純さんは、電気店を営んでいた父親が東京で広告代理店を始めることになり、小学校4年生から東京で暮らし始める。バイクとの出会いは、中学3年のとき、自転車部の友人から自転車で大阪まで行こうと誘われたその道中、箱根の坂をヒーヒー言いながら自転車で登っている一行を軽々と抜いていったバイクがいた。そのときに「バイクに乗りたい!」と思った純さんは、高校1年になって教習所に通ってバイクの免許を取得。スズキのセルペットでバイクライフをスタートした。
そのころ、1960年代の終わりはまだバイクは珍しく、街中でも出前のカブなどビジネスバイクを見かけるくらいで、大学生になってイタリアのモトパリラ・GS175に乗っていた純さんは「変わってるね」と思われていたのだそうだ。
そして1960年代の末と言えば大学紛争真っ盛りで、純さんが通う大学もロックアウトになり、時間を持て余して当時あったバイク雑誌で新車のテストをするアルバイトを始めた。
その雑誌の編集作業中に、ヤマハのモトクロスのワークスライダーが、単身アメリカに武者修行に行くという執筆原稿を読んで心惹かれた純さんは、そのライダーに手紙を書いた。
「アメリカは面白いですか?」「面白いよ。日本人もいるよ」
そんなやりとりをしただけで、純さんはアメリカに行くことを決意。当時乗っていたクルマを売って航空機のチケットを片道分だけ買って、アメリカ大使館で観光ビザをもらい(当時はビザが必要でした!)、ハワイで通関する際に(さらに当時はアメリカへの直行便もなかった)係員に「何しに来たんだ」と問われレースを見に来た、デイトナに行くつもりだと言うと、レース好きだったその係員と意気投合して3か月のビザを6か月に伸ばしてもらって、無事にアメリカに入国した。
ロサンゼルスに着いて、デイトナにレースを観に行って帰ってきたらもう持ってきたお金はほとんどなくなり、働かなければいけなくなった純さんは、カリフォルニアのシミバレーというところのヤマハのバイクショップがメカニックを募集していることを知り、メカニックの経験など皆無なのにそのお店で働くことになった。
ただ、間の悪いことにそのお店のチーフメカニックが純さんが勤め始めてすぐに辞めてしまい、ド素人の純さんはひとりでメンテナンスから修理まで任されることになってしまった。
エンジンのオーバーホールなんていう大仕事もサービスマニュアルをめくりながらなんとかこなしていた純さん、お店のボスの家に寝泊まりしていたこともあって徐々にお金が貯まり始め、そのとき「そうだ、オレはアメリカにレースをしに来たんだ」と思い出した。
そこで、まずはバイクを用意しようと、お店にあったバイクをバラし始めた。そんなところに、店のお客さんの息子がたまたま来て、「レースやるならオレのバイクを買えばいいよ」とヤマハの250㏄のロードレーサーを譲ってくれた。そのマシン、実は黄色い車体に黒いストロボラインが入ったインターカラーにペイントされた市販レーサー(TD2)で、譲ってくれた人はキース・マッシュバーンというワークスライダー(その後、ついこの間までシミバレーの市長を務めていたそうだ)。さすがにワークスカラーで走るのはだめと言われ、黄色の車体を赤に塗り替えて、ローカルのノービスクラスのレースに出場することになった。
日本で1、2度レースに出たことはあったが、ほとんど素人の純さんだったが、レースがスタートして何も分からないまま前の選手について走ったら、さすがワークスマシンでどんどん前のライダーを抜いて、初参戦で2位に入賞。次のレースに出ようと思ったら、前のレースで2位になったことを知っている係員のおばさんに「あんたはノービスクラスじゃだめ。ジュニアに上がりなさい」と言われ、仕方なくジュニアクラスで走ったら今度はなんと優勝! それから10レースくらい走って、常に表彰台に上がっていた純さんに、マシンを譲ってくれたキースが「もうローカルはいいから、AMA(アメリカのプロフェッショナル・レース団体)のレースに出ろ」と言われ、全米を転戦することになった。
その頃、純さんが働いていたヤマハのショップの近くにヨシムラが工場を建てていて、純さんはヨシムラのスタッフとしてポップ吉村に怒鳴られながら働くこととなり、そこで働いていたスタッフと一緒にAMAプロシリーズ(すでにシーズン半ばだったが)を転戦。シーズン終了後に日本に帰国し、前述のように国内のレースを2シーズン走り、レースは一時中断。知り合いから「バイク雑誌を作るから手伝わないか」と誘われ、いまにつながるジャーナリストの道に足を踏み入れることになった。
大騒動になったエイプリルフールのロードボンバー事件!
純さんが手伝うことになったバイク誌はいまはなき「モトライダー」。
古くからのバイク好きの方なら覚えているかもしれないが、純さんがモトライダーに在籍しているとき、島英彦さんという方と共同でヤマハ・XT500というシングルエンジンのオフロードバイクをベースに、オリジナルのロードバイクを製作。そのバイクを誌面で紹介する際に、「ヤマハから新型カフェレーサーが登場する!」とスクープ記事風に仕上げ、片隅に「これはエイプリルフール」と書き添えたのだが、誰もそんな小さな文字を見ずに美しく仕上がったロードボンバー(純さんが命名)に目が釘付けとなり、全国各地のヤマハの販売店に「販売はいつ?」、「価格はいくら?」という問合せが殺到。その騒ぎはヤマハ発動機の本社にも届き、モトライダー誌は当然、大目玉を食うことになったのだった。
その後、ヤマハがビッグシングルのロードスポーツであるSRシリーズを発売することになり、ロードボンバーがそのきっかけになったのでは(実は違ったのだが)という逸話が付いて、いまなお語られる伝説のマシンとなったのである。
この光具合、すげーな。これやばいよ!
純さんの半生を書き続けるといつまでたっても終わらないので、この辺でワックスの話に。
固形ワックス世代だが、エンブレムやつなぎ目などが多いバイクには少々使いにくいなぁと思っていたという純さんだが、濡らしたスポンジにとってうっすらと塗っていくマスターワークスの使い方を説明して、早速使っていただいた。
「こんなに薄くつけるので大丈夫なの?」
そう言いながら、BMW・R1200GSラリーのタンクにワックスを掛け始めた純さん。ワックスを薄く伸ばした後に、拭き取りクロスで丁寧に磨き上げた。
「すげーな、これ。ツルツルになっちゃった。こんなに薄く塗るんでいいなら、タンクの継ぎ目にも入り込まないから白く残ることもないね」
次に、カーボンのリヤフェンダーを磨いてもらった。
「うわー、この光り方やばくない? 強烈だわ、これ。これだけ光ると気持ちいいね」
ご満悦の純さんは、今度は1970年代生まれのドゥカティ・350スクランブラーのメッキタンクを磨き始めた。50年物のスクランブラーの年相応にくすんだメッキタンクがみるみる輝きを増していくのが目に見えて分かり、さらにタンクキャップを磨くとまるで新品のようにピカピカに輝き始めた。
「磨いたところとほかのところとの差がすごい。これは磨きたくなるね。超オススメだね」
二輪業界の重鎮たる純さんのお墨付きをもらったマスターワークス。皆さんにもぜひお試しいただきたい。
GSとセローで下道オンリーのツーリングを楽しんでいる
モトライダーの編集長を務めた後、フリーランスとなり現在に至る純さんは、BMW Motorradの公認インストラクターの資格を取得して以来、BMWのご意見番的存在になり、BMWが主催するイベントには欠かせない存在だ。
筆者もその一人だが、純さんにライディングを教えてもらったライダーは全国に星の数ほどいる。分かりやすく、しかも確実にライディングが上達する純さんのレクチャーは高い定評を得ているのだ。
最近は、BMWのオーナーズクラブの「BMW Clubs Nippon」の顧問として、クラブ員にトレーニングをするくらいで、空いた時間はもっぱらヤマハ・セロー(たまにGS)での下道ツーリングを楽しんでいる。
昨年10月に、長野県の昼神温泉で開催されたクラブの全国大会にも、オール下道を使ってGSで参加した。
「高速道路は面白くないでしょ。下道だと、走っている道中が楽しいんだよ」
73歳にして、いまだ年間1万5000㎞程走る。それも、ほとんど下道オンリーで。
「コロナ騒ぎで中断しちゃったんだけど、またヨーロッパにツーリングに行きたいなぁ。バイクにはまだまだ乗り続けますよ」
これからも乗って楽しむ、そして磨いて楽しむバイクライフを送ってくださいね!
取材協力:山田 純(やまだ じゅん)
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