マシン・オブ・ザ・イヤー2018
一般ライダーが思う

自動運転×バイクのモヤモヤ白書

いよいよ来年は、マンガ/映画「AKIRA」の世界が描かれた2019年。いま現在、東京湾にNEO-TOKYOは存在しないが、2020東京五輪というイベントを1つの目標に、クルマの自動運転技術が急速に進み始めている。そこで気になるのがバイクが今後どう扱われ進化していくのか? 一般ライダー目線を強く持つ高橋剛さんに話を伺った。 ※ヤングマシン2018年8月号(6月24日発売)より

進化して欲しいものと、取り残されて欲しいもの

ヤマハSRはめんどくさいバイクだ。エンジンをかける方法は、以下の通り。イグニッションキーをオンにする。左ハンドルのデコンプレバーを引く。キックインジケーターを覗きながらキックペダルを軽く踏み、小窓にシルバーが表示される位置に合わせる。そして、体重を乗せてキックペダルを思いっ切り踏み込む。エンジンがかかる。……めんどくさ。ボタン1発でエンジンがかかるセル式に比べて、ひと手間もふた手間もかかる。

しかしヤマハウェブサイトの開発ストーリーによると、キックスタートはこだわりの装備らしい。ウェブには、SRがキャブレターからフューエルインジェクションに切り替わる際、始動しやすいキックの実現のためにどれだけ苦労したかが切々と綴られている。「わざわざキックスタートの開発で苦労するぐらいなら、一般的なセル式にすればいいじゃん……」と思うが、ヤマハはそれをよしとしない。「たくさんの人にキックを踏んでもらい、多種多様なクランク回転のデータを収集し、エンジン始動条件を設定(ヤマハウェブサイトより)」することで、FIでも始動性良好なキックスタートを実現したのである。そこまでこだわる理由も、ウェブにはしっかり記載されている。「キックペダルでエンジンを掛けるオートバイがSRだからです」。……最強の理屈だ。SRはキックスタートである。だからFIになっても、キックスタートである。……鉄板だ。そして、その頑なな節度が素晴らしいと思う。時代はとっくにセル式が当たり前なのに、「SRはキックだからキックなの!」と言い張って譲らない。

そして、「めんどくさい」と書いたが、実際にはそれほどめんどくさくない。それどころか、キック1発でエンジンがかかった時の「してやったり!」という達成感は、ささやかだけれど、結構大きい。「どうだ!」と。そうやってキック始動を繰り返すうちに、「オレのバイク」感が増していく。めんどくささの先で、自分とバイクの関係が密接になっていく。バイクっていうのは、そもそもがめんどくさくて、それでも、いや、それだからこそ、わざわざ乗りたくなるというややこしい乗り物なのだ。SRはバイクの本質的な魅力を教えてくれる。「バイクって、こういうことなんじゃないの?」とメッセージしてくるのだ。

 

ところが、SRのようなバイクにこだわり続けるヤマハが、モトロイドという超先進的なバイクを登場させるのが、僕にはよく分からない。「つじつまが合わないじゃないか」と思う。昨年のモーターショーに登場したモトロイドは、皆さんご存じ、自立するバイクだ。その少し前にホンダが家電見本市「CES」で発表したライディングアシストも、システムはまったく違うが、求める先は同じ。乗り手に課せられていたバランス取りを、バイクが受け持つというものだ。一見スゴイ。人が乗っていなくてもスックと自立しているバイクは、かなりの未来感だ。そして、薄ら寒くなる。「人が何もしなくてもいいバイクって、何なんだろう……」と。モトロイドもライディングアシストも、恐らくは実験的に自立走行を達成しながら、そこで得られた知見をエッセンスとして分解し、今後のバイク作りに生かしていくためのものだろう。もちろん自動運転化が進む交通社会に対してバイクの可能性をアピールするという意味もあるはずだ。「バイク業界もこれだけのことができますぜ」と存在感を示せたのは確かだ。さらには「誰でも乗れる安全なバイク」を提案し、バイクの間口を広げる意欲を見せた、とも言えるかもしれない。

でも、だが、しかし……。SRのキックスタートは、我慢できるどころか、やがてしっかりと体に馴染み、むしろ儀式として楽しむことができる。めんどくささというハードルがあるからこそ、機械に対してより強い結びつきを感じることができる。一方のモトロイドやライディングアシストは、「乗り手がバランスを取る」というバイク最大のめんどくささを、ごっそりとバイク自体が肩代わりしてくれる。パッと見では、ものすごくいいことのように思える。だが、「SRのめんどくさいキックスタート」と「プロトタイプモデルたちの便利な自立走行」、このふたつの間には「バイクか、バイクじゃないか」というぐらいの、大きな隔たりがあると僕は思うのだ。

 

さて、ここまでも、これからも、書き連ねるのは完全に私見だ。冷静なデータを揃えることもしないし、客観性もない。バイクに対しての思いや、バイクに何を求めるかは人それぞれ相当にバラツキがあって、そこが面白いし、どれが正解ということもないと思う。僕が書くことも、ただ小さな視点のひとつとして受け止めてもらえればいい。僕がバイクに魅力を感じるのは、機械でありながら奇妙なほど人間臭い乗り物だからだ。不合理で、リスキーで、めんどくさくて、手間がかかり、でもそういうところのすべてに人間的なかわいげや面白みがある。僕がいないと、この乗り物はまったくといっていいほど機能しないのだ。サイドスタンドを払ったら、僕の支えなしに自立することすらできない。「しょうがねえなあ」と思いながら、僕はかわいげのあるバイクを転がさないために、自分のスキルを高めようとする。

つまり大好きなバイクのために頑張ろう、と思っているわけだ。もちろん僕自身も痛い目に遭いたくない。なのにバイクは僕の身を守ってくれない。だから僕は自分の身を自分で守ろうとする。バイクに乗っていると、横着な僕でさえ半ば強引に「精進しよう」と思わせられている。僕がいないと機能しない弱々しい存在でありながら、厳しい先生のようでもある。要するに多面的すぎてワケが分からない乗り物なのだ。その意味不明さこそが、バイクという乗り物の存在意義だと僕は思っている。だから僕は、行き過ぎた技術を搭載してバイクの手間を減らすことは、バイクの存在意義そのものを根底から揺るがすのではないかと恐れている。自立するモトロイドやライディングアシストは、メーカーの技術力をアピールすることはできても、バイクという乗り物そのものの魅力を損ないかねない。

 

ところで「バイク、バイク」と言っているが、僕は「実用のバイク」と「趣味のバイク」はもっと明確に分けて考えた方がよいと思っている。そして「実用のバイク」においては存分に先進的な安全装備を搭載してほしいし、何なら自動運転も含め、より安価でより高精度な技術をどんどん開発し、じゃんじゃん採用してほしい。というのは、実用目的でバイクを購入する人たちというのは、僕がさっき言ったような「人間臭い乗り物である」なんてロマンチックな理由ではなく、「自分の生活の役に立つか・立たないか」というもっとシビアかつ実利的な判断からバイクを選ぶからだ。僕が住んでいる千葉・外房の田舎エリアでは、カブを颯爽と走らせるおばあちゃんをよく見かける。カブに必要以上の思い入れを持たず、生活の足として利用しているおばあちゃんたちに、「バイクの特質だから」とリスクや面倒を背負わせるのは、大変申し訳ないことだ。できる限りの技術でおばあちゃんを守ってほしいと切に願う。

 

だが、「趣味のバイク」となると話が違う。そしてここからは「趣味のバイク」を前提に話を進めたい。バイクの趣味性をどこに見出すかはまさに人それぞれで、眺める、集める、いじるなどいろいろだが、乗ることに関して言えば、やはり「自分で機械を操る」という充実感が最大のヨロコビだろう。分かりやすく言えば、補助輪なしの自転車に乗れた時のうれしさ──なんかすごいことを成し遂げた!──の延長線上に、バイクはある。決してラクではなく、手こずることも多く、難しく、失敗が手痛く跳ね返ってくる。そういった乗り物を苦労して自分のものにした時、信じられないほどの爽快さと大きな手応えと他では得難い喜びが待っているのだ。

逆に、ラクで、手こずらず、簡単で、失敗しない乗り物になった時、バイクが「わざわざ乗りたい」と思える存在かどうか、僕には疑問だ。適度な緊張感があるからこそ、達成感が得られる。僕など家に辿り着いてヘルメットやプロテクターだらけのウエアを脱いだ時、毎回大きなため息をつく。「ああ、今日も無事でよかった」と思う。それはリスクと裏腹だ。「バイクに乗る」というリスクをマネージメントできたからこその充実感だ。そのリスクはもちろん、生命の危機に直結するようなものではいけない。常に生きるか死ぬかの瀬戸際にあるようなギリギリのリスクは、僕だってお断りだ。ただ、広く一般的にコントロールできる程度のリスクなら、バイクに残しておいた方がよいと思っている。自動運転や自立走行にオンオフスイッチをつけるというアイデアもあるかもしれない。必要な時に作動させればいい、と。だが、それはもっともリスキーだ。水は低きに流れ、人は易きに流れる。自動運転に慣れると同時に、人のライディングスキルは間違いなく低下する。そして自動運転を切れば、スキルの低い人間がバイクを操ることになる。オフにできる自動運転は、不用意にリスクを高めるだけだ。

そもそも、スキルなど必要ないレベルに到達しなければ、本当の意味での自動運転とは呼べないはずだ。自動運転や自立走行をめざす時、それはあらゆる人に対して等しく適用されるものでなければならない。例えばあるスーパースポーツモデルに安全アシスト装備がフル搭載され、自立走行し、自動運転が可能な時、それは当然、おばあちゃんでもイージーに乗れるということだ(おばあちゃんにSSのポジションはキツイかな)。うーん、何だかなあ……。正直に言うが、僕はバイクに乗ることに少なからず特別な意識を持っている。「オレはバイクに乗れるんだぞ」なんて威張るつもりはないが、どこかで「特別なことをしている」という思いはある(それはよいことでもあり、悪いことにもなり得る諸刃の剣だが)。自分がいてこその、バイク。バイクがあってこその、自分。揺らぐ人と揺らぐ機械の間に、密接で特別な間柄を築けることが、バイクの面白さなのだ。自立して、自動で運転でき、おばあちゃんでも乗れる乗り物に、特別な感情を持てるだろうか……?

 

技術の進化は止まらないし、無闇に止めるべきでもない。だが、技術のすべてをよしとする時代はとっくに終わったとも実感している。例えば医療だって、ただ長生きをめざす時代じゃない。医療が何をもたらすかを問いながら、生きていることの質をどう高めるか、という考え方にシフトしている。バイクに搭載する技術も同じだ。その技術によって何がもたらされ、何が失われるのか。その技術は本当に必要なのか。想像力を全開で働かせて先の先まで読み、適切なかたちで取捨選択することが、人間の英知だと思う。

’80 年代半ばから’90年代初頭のレーサーレプリカブームは確かにたくさんの技術を生んだが、その末に残ったものはいったい何だったのだろう。果たしてバイクを取り巻く世界にとってよきものがもたらされたのだろうか?  バイクの自動運転技術や自立走行技術は、自動車業界に引っ張られながらちょっとしたブームになりつつある。その結果、何が得られるのだろう? 僕にはあまりよい姿が浮かばない。バイクではないバイクといった、いびつなイメージしか持てない。「これは社会要請だよ。これからの交通社会にあって、バイクもどんどん進化しないと生き残れないさ」という意見もある。でも僕はそうじゃないと思う。交通弱者の存在を危ぶませることがないように、交通強者の側が進化するのが筋とういうものだ。

歩きたい人もいれば、車椅子の人もいれば、自転車に乗りたい人もいれば、バイクに似りたい人もいれば、マニュアルの自動車に乗りたい人もいる。スーパーカーもあれば軽トラもある。社会規範から逸脱しない範囲なら、移動手段は自由に選びたい。選択肢が多いほど、社会は豊かだと思う。そして移動手段が多彩であればあるほど、どうしても困難や軋轢が生じる。安全や無事故は誰もが望むところだが、避けがたい事態も発生し得る。その中で、どうにか「強き者が弱き者を守る」という構造を研ぎ澄ませていくことが、社会の品格というものじゃないだろうか。自動運転は弱者保護のためにこそあるべきで、交通手段のすべてに搭載するような一義的なものじゃない。

 

バイクの側が進化すべき点も、まだまだある。転ばないというより、転んだ時にもライダーをできるだけ守るような構造や仕組みがもっと採り入れられないものかと思うし、歩行者を守る技術という方向性も欠落している。だが、いずれにしても趣味のバイクに搭載する技術はほどほどでいい。効率や合理性ではまるで説明できないワケの分からなさこそが魅力だからだ。「趣味だけど自動運転のバイクに乗りたい」という人がいたって、もちろんいい。選択肢は多様であるべきだ。ただ、僕のやることをごっそり減らすような技術を搭載したバイクは、僕にはしっくり来ない、というだけの話だ。

……まぁ、ここまで書いておいてナンだけど、未来がどうなるかなんて分からない。メーカーが自立するバイクを提示してしまった以上、やがてそれが主流になるかもしれない。そうなった時、僕は喜んで時代から取り残されよう。そして世界の片隅でひっそりと、わざわざキックスタートしたり、転びそうになってドキドキしながら、面倒なバイクに乗り続けよう。

【高橋剛】日本版AMA設立を模索する活動家肌ライダー。バイクやレーシングカートにかまけて慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を4年で華麗に中退。

イラスト:有野 篤

高橋 剛

高橋 剛

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カート上がりのバイク野郎。心震わす原稿が得意で、あのスポーツ名門誌・Sports Graphic Numberにも寄稿したりしなかったり。セッティングさえ出れば怖いものなしの隠れ文豪。

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