ヨシムラブランドの手曲げ集合管を鈴鹿で製作していたモリワキ【50年カンパニー Vol.4 MORIWAKI前編】

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創業以来、長きにわたってライダーをサポートし続けているメーカー/企業が、ここ日本には数多くある。中でも、50年を超える歴史を持つところは、バイク業界に訪れた大波・小波を乗り越えながら、常にライダーを見つめ、ライダーのために歩んできた。創業51年となるモリワキエンジニアリング(以下モリワキ)は、昨年9月に初代社長の森脇護が会長となり、長男の尚護が新社長に就任した。世代交代を果たしたモリワキは、今後どのように進んでいくのか。日本が誇るコンストラクターとしてのレース活動や、さらにアフターパーツメーカーとしてのもの作りにどう取り組むのか。相談役となった護会長の妻・南海子も加えた3人に話をお聞きした。(文中敬称略)

●取材/文: Nom ●写真:木村圭吾、モリワキエンジニアリング、YM Archives ●BRAND POST提供:モリワキエンジニアリング

モリワキは、アメリカへ渡ったPOP吉村を日本から支えた

1973年に、ヨシムラがアメリカに拠点を移すことに反対し、ポップ吉村こと吉村秀雄(以下ポップ)に勘当された森脇護(現会長)とポップの長女である南海子(現相談役)夫妻は、同年9月30日に三重県鈴鹿市道伯町にモリワキエンジニアリングを設立した。

1976年に道伯町から移転した玉垣工場。右が事務所で、左側がファクトリー。ここでレーシングマシンの開発やメンテナンスを行っていて、決勝レース前夜はメカニックは徹夜が当たり前だった。

設立当初は、四輪のグラチャンやF2のエンジンのチューニングをしたり、ホンダ・CB125のシリンダーポートの研磨などで生計を立てていた。そんな中、ポップが開発した集合管マフラーが一大ブームを巻き起こした。当時、アメリカ法人でトラブルに巻き込まれ、帰国を余儀なくされたポップを支えるため、鈴鹿でヨシムラブランドの手曲げ集合管を製作。これが飛ぶように売れたのだった。

「身ひとつで帰国することになったオヤジにとって、手曲げ集合管のロイヤリティは復活劇を遂げるための大きな力になったはずです。また、Zのカムシャフトはステージ1と2(ボンネビル)がオヤジの決めたプロフィールに基づいており、それに合わせたピストンキットも含めて、どちらも『POPY』の刻印を施しました。これらのパーツは毎週、玉垣工場からアメリカのオヤジの会社に航空便で送っていました。Zはまさにオヤジの再起への原動力でした」(護)

モリワキエンジニアリング 社史

ヨシムラ時代から、ポップとともにZ1のチューニングをしていた護は、ポップがベースマシンをスズキに変更したので、Zのチューニングを引き継ぐことになった。

「ステージ1と2のカムシャフトまではオヤジが作ったんですが、Z自体がもともと街乗り用のバイクで、レースをするようなエンジンじゃないんですよ。ただ、材料がそれしかないのと、頑丈なエンジンだったのでどんどんチューニングを進めて行って、最後はステージ5まで行きました。馬力も相当出ていましたよ」(護)

昨年9月に新社長に就任した森脇尚護(右)、会長となった護(中央)、相談役の南海子(左)の3人がインタビューに対応してくれて、過去のレース活動については護会長、現在と将来に関しては尚護社長が主体となって応えてくれた。

1980年代中盤、実力・人気ともにモリワキは絶頂期を迎えた

1981年の第4回鈴鹿8時間耐久レースが、モリワキにとって大きな起点となった。フルチューンしたZ1000のエンジンを、大排気量車では初となるアルミフレームに搭載したモリワキ・モンスターに、のちに世界GPチャンピオンになるワイン・ガードナーが乗り、2分14秒76というタイムを叩き出しポールポジションを獲得したのだ。

「ストップウォッチを見ていたら手が震えました。前の年のポールタイムが2分17秒台でしたから、3秒以上縮めていた。もう他のピットも全部、シーンと静まり返るくらいの衝撃でした」(護)

ただ、護にとっては第1回と第2回の鈴鹿8耐にモリワキから出場し、のちに世界GPへも参戦したグレーム・クロスビーの走りを見たときの衝撃がさらに大きかったという。

「最初にテストでZ1で走らせたとき、大排気量車なのに250みたいに乗りこなしてるんです。ヘアピンで見ていたら、他のライダーがみんなセオリー通りアウトに出てから曲がっていくのに、クロスビーは真っすぐコーナーに入ってきてクルっと向きを変えて立ち上がっていく。こんな走りができる人間がいるんだと思いました。こんなライダーがいるということは、もっと能力を持ったライダーもいるかもしれない。そう思ったら、自分が向かう先行きの道が見えました」(護)

モリワキの名前を不動のものとしたのが、’81年の鈴鹿8時間耐久レースの予選で驚異的なタイムを叩き出したモリワキ・モンスターと、若かりし日のワイン・ガードナーだった。カワサキ・Z1000のエンジンを徹底的にチューニングし、大型バイク用としては世界初のアルミフレームに搭載。このマシンが装着したモナカサイレンサーのモンスターエキゾーストは爆発的に売れた。写真はフォーサイトに変更されている。

グレーム・クロスビー(左)とワイン・ガードナー(右)なくしてモリワキの歴史は語れない。驚異的なライディングスタイル/テクニックを持つクロスビーと出会ったことで、モリワキのマシン作りは一気に加速したという。そして、鈴鹿8時間耐久レースという世界的な大会で衝撃的なポールタイムを記録したガードナーも、モリワキが飛躍する大きなきっかけを作ったのだ。

クロスビー、ガードナーという2人の外国人ライダーの活躍でメキメキと頭角を現していったモリワキレーシングは、1983年から今度は日本人ライダーにより絶頂期を迎える。

1983年の鈴鹿4時間耐久レースに、ホンダ・CBX400Fのエンジンをオリジナルのアルミフレームに搭載したZero-X1で出場した、宮城・福本ペアが優勝。翌1984年には、ホンダ・CB750Fのエンジンをオリジナルフレームに搭載したZero-X7で、八代俊二が初代のTT-F1チャンピオンに輝いた。

当時は空前のレースブームで、街を走っているバイクとレースをしているバイクが同じモデル。だから、レーシングマシンに付いていたマフラーが売れに売れた。

「マフラーで得たお金を、全部レースにつぎ込んじゃっていましたね」(南海子)

1980年代中盤の、モリワキレーシングの黄金期を作ったライダーたち。左端が宮城光、その隣が樋渡治、ひとりおいて八代俊二、福本忠、松野鈴一。護会長がまたがっているのは、TT-F1クラスの初代チャンピオンマシンとなったZero-X7八代車。当時は、F1、F3、GP250クラスにオリジナルのアルミフレーム車でエントリーして大活躍し、レース人気を牽引した。この写真は、本誌’85年8月号の特集「我らモリワキ」のために撮影したもので、その号の表紙を飾った。

その後、1990年代はベースマシンの戦闘力不足やレギュレーションの変更などもあり、思うような活躍ができなかったモリワキだったが、4ストロークに変更されることになったMotoGPへの参戦を決断する(後編へ続く ※近日公開予定)。


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