●編集:モーサイ編集部(上野茂岐) ●原文:小関和夫(当記事は八重洲出版『日本モーターサイクル史1945→2007』の記事を編集・抜粋したものです) ●写真:八重洲出版
60年の時を経てカワサキが復活させたブランド「メグロ」だが、実は、カワサキとは別の企業の名に由来している。「メグロ」を製造していた目黒製作所は大正時代に誕生し、陸王と並ぶ「国産大型二輪車の名門」だった。二輪車が極めて珍しかった時代に、目黒製作所はどのようにして大型二輪車の開発・製造に着手したのだろうか。
目黒製作所創業者のひとり、村田延治は大正時代に「国産ハーレーの開発」に携わっていた
ハーレーダビッドソンの輸入が始まった大正時代。軍用車としての需要も踏まえ、「国産ハーレー」の誕生を目指す動きが国内で高まった。
当時、輸入を行っていたハーレーダビッドソンモーターサイクル株式会社の親会社である三共(現・第一三共)が陸軍と相談し形になったのが有名な「陸王」だが、「ハーレーの国産化」を目指したのは彼らだけではなかった。
1922年(大正11年)に、東京・赤坂の勝 精(かつ くわし)伯爵の屋敷内で、渋沢栄一などの援助を受けた村田鉄工所がハーレーを模した1200ccVツインのバイク「ヂャイアント号」を3台完成させていたのだった。
しかし、当時のハーレーの価格が1台1400円だったのに対し、ヂャイアント号の製造コストは1台4000円と高価になり、量産計画は水泡に帰してしまう。
1924年(大正13年)8月、村田鉄工所の社長だった村田延治は勝伯爵の屋敷内にあった自らの鉄工所を閉鎖するにあたり、友人の鈴木高治に東京市大崎区目黒村(現・品川区桐ヶ谷)に鈴木鉄工所を立ち上げさせた。
その後、村田は勝家を離れて鈴木と合流し「目黒製作所」を設立する。
信頼性の高さから「目黒のミッション」と名を馳せ、自社製エンジンの開発へ
新たに工場を立ち上げたとはいっても、そこは4軒長屋の1軒にすぎなかった。だが幸いなことに丸石商会がトライアンフを日本で一部組立てていたため、目黒製作所は補修用ミッションの製作を開始。
事業は順調に進み、折からの3輪トラックブームもあり、エンジン製作の注文も舞い込むようになった。
ミッションは英国製のバーマンなどを参考にし、エンジンはスイスのモトサコシが搭載していたMAGを参考にした。
エンジンは500cc、600cc、650ccの空冷OHVシングルと水冷のOHV750ccVツインがあり、ヂャイアント号での経験が生かされた。
さらに自動車用には水冷V4も手がけるなど、目黒製作所の技術レベルは極めて高いものであった。
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