
自分とはあまりに違う次元にいる加藤。そのことを見せつけられた原田は、敬意と期待を抱いた。日本人初の最高峰クラス王者という夢を――。天才と呼ばれた、ふたりのレーシングライダー、原田哲也と、加藤大治郎。世界グランプリ250ccクラスを舞台に、才能が交差した2001シーズンの激闘を振り返る。
文――高橋剛 Go Takahashi 写真――竹内秀信 Hidenobu Takeuchi/折原弘之 Hiroyuki Orihara (本稿はビッグマシン2016年8月号に掲載された記事を再編集したものです)

自分の中で積み上げた実績が、いつしか足かせになっていた
第12戦バレンシアGPで、加藤大治郎がシーズン8勝目を挙げた。
表彰台のひとつ下の段に立った原田哲也は、「ああ、今年のチャンピオンは大ちゃんで決まりだな」と思っていた。
そこまでに、原田は2勝していた。さらに、2位、3位と表彰台を重ねながら何とか加藤に食らいついていたが、バレンシアGP終了時点でポイント差は49点にまで開いていた。
「もはやチャンピオン獲得は難しい。でも、まだ仕事は残っている」と原田は考えた。
「こうなったら、いかに大ちゃんのチャンピオン獲得を遅らせるか、だな」


第13戦パシフィックGPの舞台は、日本のツインリンクもてぎだった。日本人同士のタイトル争いを携えての、母国グランプリだ。
そんな時に限って、原田はインフルエンザにかかっていた。39度近い熱を出してフラフラだったにも関わらず、ライディングの調子はなぜかよかった。
土曜日の予選。加藤がセッション終盤に1分52秒813という好タイムをマークした。
「あのタイムは超えられないなあ……」。そう思いながら、原田は最後のタイムアタックをしていた。
グランプリマシンが履く予選用タイヤは、超ハイグリップを発揮する反面、もって2周だ。原田はすでに3周目、そして4周目に入っていた。
タイヤのグリップが終わりつつあることに 気付いた原田は、走り方を変えた。強引に突っ込んでコーナー入口から旋回スピードを稼ぐのではなく、ていねいに進入速度を落とし、素早く向きを変え、いち早く加速する。
うまくいったような気がしないでもない。だが、手応えはない。セッションを終えてピットに戻ると、加藤のタイムを0.024秒上回ってのポールポジションだった。
「ああ……」と原田は不思議に思った。
「頑張って狙ってもポールポジションなんてそう簡単に獲れるもんじゃないのに、インフルエンザでいい具合に力が抜けたのかな。タイヤのグリップも終わってたことで、結果的にいいラインを通れたのかもしれない」
翌日の決勝レースも、座薬をうち解熱剤を飲んで臨んだ。レース序盤、加藤がマルコ・メランドリの転倒に巻き込まれてリタイヤ。 原田は後続を寄せ付けることなく、独走優勝を果たした。
アプリリアの母国イタリアで優勝し、自身にとっての母国日本で優勝する。アピールすべきレースでの勝利。原田は、プロの仕事を成し遂げた。
そして、このツインリンクもてぎでの優勝が、グランプリライダーとして最後の表彰台 となったのだった。
抵抗は、ここまでだった。翌第14戦オーストラリアGPは加藤が優勝、原田が2位。そして第15戦マレーシアGPもまったく同じ着順で、加藤大治郎が世界チャンピオンを獲得した。
「シーズンが始まる前から、『今年は大ちゃんが獲るだろうな』と思ってたから、ショックではなかったよ」と原田。
「このシーズン、まわりは『加藤 vs 原田』って盛り上がってたみたいだけど、僕からすれば大ちゃんのワンサイドゲーム。こてんぱんにやられて、まったく勝負にならない1年だった。でも、大ちゃんはそれだけの実力があったからね。チャンピオンになるべくしてなったわけだから、悔しさも大きいけど、同じ日本人として称える気持ちの方が大きかったかな……」
負けた悔しさよりも、「すごいヤツと戦えた」という満足を、原田は感じていたのだ。もはやライバル関係とは言いがたい、尊敬に近い思い。それは原田自身が、一番近いところで加藤の才能に触れていたからだ。
「あのシーズン、みんなこぞって『天才同士の戦い』なんて言ってたけど、僕なんかと大ちゃんは次元がまったく違ってたんだよ。彼は僕よりも1ランク、2ランク上の走りをしてたんだ」
加藤が走らせたホンダNSR250、そして原田が走らせたアプリリアRS250という、マシンの差があったのも確かだ。しかし、「ライダーとしての実力差も間違いなくあった」と、原田は率直に認める。
「これがね……、どうにもできない差だったんだよ。もちろん自分としても負けたくない気持ちはあったし、やれるだけのことはやったよ。でも大ちゃんとの間には、どうすることもできない差があった」
美しいライディングフォーム。しなやかなマシンコントロール。バトルでも引かない強気。優れた戦略の組み立て方。そしてもちろん、速さ――。
ともにレースを戦いながら、原田は加藤大治郎の才能を誰よりも近くで見ていた。
「あと5歳若ければ、何とか追いつけたかもしれないね」と原田は言う。
’01年当時、加藤は25歳。原田は31歳で、グランプリでは9年目のシーズンだった。
「もう僕には、乗り方を変えることができなかったんだ」
長いキャリアを重ね、実績を積むほどに、自分のスタイルが確固たるものになっていく。それは大いなる自信になる一方で、足かせにもなり得る。新たな領域に向かう妨げになりかねないのだ。
「走りを変えるのって、ものすごく怖いことなんだよ。うまく行けばいいけど、失敗する可能性もあるからね……。しかも、レースシーズンはどんどん進んで行くから、足踏みしているわけにもいかない。本当に怖いんだ」
「今になって思えば、『あの時、走り方を変えていればもう少し大ちゃんといい勝負ができたかな」と思う。もしかしたら勝てたかもしれない。でも、それは引退した今だからこそ言えることだ。現役真っ最中では、とてもじゃないけど怖くてできなかったね」
台頭してくる若い才能、しかも圧倒的な才能を前にして、失敗を恐れるがゆえに、自分の走りを変えようにも変えられない――。
現役時代、冷徹にレースを運び、感情をあまり見せないことから「クールデビル」と呼ばれた原田が、内面に抱えていた葛藤。加藤大治郎は、それほどの相手だったのだ。
「後ろから走りを見てて、『ああ、この子ならオレにはできないことをやってくれそうだな』と思ってたよ」
――オレにはできないこと。
それは日本人ライダーがまだ誰も成し遂げていない、グランプリ最高峰クラスのチャンピオンの獲得だ。そして原田は、「大ちゃんなら、きっと最高峰クラスのチャンピオンになってくれる」と、素直にそう思っていた。
全力で、全開で戦っても敵わなかった日本人ライダー、加藤大治郎。そして、もう走りのスタイルを変えることができない自分。
心からのエールを贈りながら、原田は、時の移ろいとともに確実に世代が変わっていくことを感じていた。


2002年、グランプリの最高峰クラスには4ストローク990ccエンジンを搭載するマシンが登場した。それまでの2ストローク500ccとの混走で、激動のシーズンとなった。
最高峰クラスにステップアップした加藤は、シーズン途中までは2ストロークエンジンのNSR500を、途中からは4ストロークエンジンのRC211Vを走らせた。原田はホンダに移籍すると同時に最高峰クラスにチャレンジ。NSR500でシーズンを戦った。
甲高い2スト、野太い4スト。2種類の排気音が入り交じる、混乱のシーズンだった。加藤はランキング7位、原田はランキング17位でそのシーズンを終えた。
原田は、「チャンピオンを狙える体制は、もう作れそうにない」と悟った。そして迷うことなく引退を決意した。
勝つために、レースをしている。勝てないレースなら、戦う意味がない。自らのレース哲学を、原田は貫き通したのだった。
2003年4月、原田がいない日本GPが鈴鹿サーキットで行われた。そして決勝レース中のアクシデントにより、加藤大治郎は命を落とした。原田が、そして誰もが期待した最高峰クラス初の日本人チャンピオンにならないうちに、地上の光は空へ昇っていった。
「大ちゃんは、本当の意味での天才だった。しかも、努力を努力とも思わずに、努力してたんだ。バイクに乗ることを楽しみながらね。バイクに乗ることが苦痛で仕方なかった僕とは大違いだったよ。敵うはずがない(笑)」
現役を引退して14年。原田は今(2016年当時)、ゆったりとバイクと向き合っている。ツーリング、サーキットでのスポーツ走行。「バイクが楽しくて仕方ないんだよね」と笑う。
今日も、そしてきっと明日も、原田はバイクを走らせる。天から降り注ぐまばゆい光を浴びながら――。
