第47回マシン・オブ・ザ・イヤー2019

【TRACTION】 ~バイクが動かす人生があった~

『絶対に、諦めたくない』加藤大治郎と原田哲也の物語〈中編〉【2001年、ふたりだけの戦い】

  • 2019/1/2

2001シーズン 原田哲也

勝利を奪い合いながら、原田は「勝負になっていない」と冷静だった。しかし諦めるつもりもまったくなく、常に次の手を考えていた。天才と呼ばれた、ふたりのレーシングライダー、原田哲也と、加藤大治郎。世界グランプリ250ccクラスを舞台に、才能が交差した2001シーズンの激闘を振り返る。

文――高橋剛 Go Takahashi 写真――竹内秀信 Hidenobu Takeuchi/折原弘之 Hiroyuki Orihara (本稿はビッグマシン2016年8月号に掲載された記事を再編集したものです)

[2001年Rd.2 南アフリカGP]#74加藤 #31原田

やれることをとことんやる それがプロフェッショナルだ

6歳年下の新人、加藤大治郎との直接対決を前に、世界チャンピオン経験者の原田は「勝つのは難しいだろうな」と、いたって冷静に判断していた。そしてシーズンは、原田の予想通り、完全に加藤のものとして始まった。

鈴鹿での開幕戦、第2戦南アフリカGPは、加藤が予選ポールポジション、決勝優勝。原田はそれぞれ決勝2位、3位だったが、彼の言葉を借りるなら「まったく勝負になっていなかった」。

「ハンパなく速かった大ちゃんに、完全にぶっちぎられてたね。こてんぱんってのはこのことだな、と(笑)。鈴鹿も2位にはなったけど、内容は全然ダメ。まったくレースになっていなかったよ」

鈴鹿のチェッカーフラッグが振られた時、トップ加藤と2位原田の間には20秒近くの差があったのである。

だが、原田自身が250ccマシンに乗り慣れてきたこともあり、手応えを感じ始めた。連戦連敗でも諦める気持ちは微塵もなく「いつかどうにかしてやる」と思っていた。

「やっぱりね、日本人ライダーに負けるっていうのは悔しいんだよ」

原田が世界グランプリにデビューしたのは、’93年のことだった。それまで「海外にはまったく興味がない」と言っていたが、自分の目で世界の走りを見た時、「こんなすごいヤツらと戦ってみたい」と思った。

そして参戦初年度、並み居る外国人ライダーを退けて、いきなりチャンピオンになった のである。

それ以降、ずっと外国人ライダーを相手に戦ってきた原田にとって、加藤は初めて遭遇すると言ってもいい日本人の強敵だ。どこかで特別な思いを持っていた。

[2001年Rd.2 南アフリカGP]加藤(中央)が優勝。原田(右)が食らいついて表彰台に。シーズン中、同様のシーンが幾度となく見られた。

第3戦スペインGP、第4戦フランスGPと加藤はポールトゥウインの記録を伸ばし続ける。ここまでの4戦、表彰台の頂点は加藤だけのものだった。

この頃、加藤はしきりとアプリリアRS250のストレートスピードの速さを警戒するようなコメントを発していた。しかしそれすらも、余裕からくるものと受け止められていた。加藤の速さは誰も手が着けられず、このままいけば楽に初世界タイトルを獲得するだろうと誰もが思っていた。

スペイン、フランスの2戦とも2位に甘んじていた原田だったが、内心では「よし、ちょっとずつ差が詰まってきたぞ」と感じていた。

特にフランスは、最終ラップまでレースをリードすることができていた。

「最後に、ヘアピンコーナーで大ちゃんにインを刺されたんだ。来るのは分かってた。僕のマシンは加速に難があって、インを閉めるとうまく立ち上がることができない。だからアウトのラインを通った。そしたら、やっぱり大ちゃんに刺されちゃたんだ(笑)。どうにか食らいついてスリップストリームから抜け出そうとしたけど、もう無理だったね。届かなかった」

フィニッシュした時のタイム差は、0.2秒だった。開幕戦鈴鹿の20秒差に比べれば、大きく前進していた。

[2001年Rd.4 フランスGP]完敗に近かった原田が、最終ラップまで勝負をもつれ込ませたレース。反撃の狼煙だった。

原田は、ひとつのレースを勝つことよりも、シリーズチャンピオンを獲ることを優先する。それにしても、まず1勝がほしかった。その時は、確実に近付いていた。

第5戦イタリアGPは、原田が所属するアプリリアの母国グランプリだった。チームにも、もちろん原田にもひときわの気合が入る。

 

予選は原田がポールポジションを獲得し、加藤の連続ポールポジションを止めた。

しかし決勝日の朝、モーターホームのカーテンを開けた原田の妻、美由希は、ひとことつぶやいた。

「終わった……」

雨だ。

原田は、決して雨が速いライダーではなかった。本人いわく、「嫌いじゃないし、苦手でもない。ただ速く走れないだけ」。いずれにせよ、せっかくのポールポジションも無に帰すのではないかと思われた。

ピットに行くと、チームスタッフたちはどんよりと暗かった。

「みんな完全に『もう終わりだな……』という表情で僕の方を見るんだ(笑)」

しかし原田ひとりだけは、「何とかなるだろう」とやけに楽観的だった。セッティングはまずまず決まっていたものの、これと言った根拠はなかった。

何となくの、「イケそうな感じ」。そのあやふやな自信が、現実のものとなった。雨のイタリアで、原田は優勝を果たしたのだ。加藤は雨に苦戦し、10位に沈んでいた。

ついに加藤の連勝は止まった。一矢報いることができた。アプリリアは、イタリアは、大いに盛り上がった。

原田が優勝し、加藤が10位になったことで、24点差あったランキングポイントは一気に5点差まで縮まった。

[2001年Rd.5 イタリアGP]難しい状況の中、アプリリアの母国レースで優勝した原田。加藤の連勝を4で止めた。

だが、これ以上差が詰まることはなかった。逆転することもなかった。加藤は速いだけではなく、原田のようなレース強さも備えていたのである。

「一緒に戦っていれば分かるけど、大ちゃんはすごく頭がいい。普段はあんなにぽけーっとしてたのに(笑)、レースになるとものすごく戦略的に考えるライダーだったよ」

原田の真後ろにつけて、その走りを窺うこともしばしばあった。弱点を見つけてそこを叩き、引き離す。したたかな走りは、原田の分身のようでもあった。

隙のない加藤を相手取って、原田はしかし、諦めなかった。最大限のベストを尽くしながら、加藤の背中に追いすがった。

アプリリアのエンジニアに「テツヤ、マシンを1kg軽くするのに何億円かかるか知ってるか?」と言われて減量に取り組んだことも、そのひとつだ。

当時、レギュレーションによりマシンの最低重量は定められていたものの、ライダーの体重はそこに含まれていなかった。つまり、ライダーが軽くなればなるほど、パッケージとしては軽くすることが可能になる。

原田は、シーズン始めには52kgあった体重を、49kgにまで絞り込んだ。もともとスリムな体型の原田がさらに3kg減らすことは、なかなかハードだった。

「メシを食わなかっただけなんだ」と笑いながら、「まぁでも、言ってみればボクサーみたいだったよ」と振り返る。

「3kgの減量がライディングにどう影響したかは、正直分かんないな。走ってて感じる違いっていうのも、何かあったわけじゃなかったしね(笑)。でも、とにかく僕は、できるだけのことをやりたかった。チャンピオンを獲るために自分がやれることなら、どんなことでも。そうやって結果を残して対価をいただくのがプロのレーシングライダーだと僕は思ってた。だから、当たり前のことを当たり前にやってただけなんだ」

[2001年Rd.8 イギリスGP]優勝した加藤に対して、原田はマシントラブルでストップ。ポイント差が大きく開いた。

2001 Road Race World Championship Race Classification [Rd.1~Rd.8]

↓ [後編]に続きます ↓

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高橋 剛

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カート上がりのバイク野郎。心震わす原稿が得意で、あのスポーツ名門誌・Sports Graphic Numberにも寄稿したりしなかったり。セッティングさえ出れば怖いものなしの隠れ文豪。